いつでも、
おいでや。
駄菓子屋のおばちゃんは、街じゅうの「お母さん」でした。
つけとくな
坂本フミ(さかもと・ふみ)
1941(昭和16)- 2025(令和7) 享年84
カラフルなガラス瓶と、
小さな社交場
下町の細い路地を曲がると、いつも子どもたちの賑やかな声が響いていた。そこにあったのは、フミが50年近く守り続けた小さなお店「さかもと商店」——街の誰もが知る駄菓子屋だった。
フミは、そこにいるだけで周りをパッと明るくする太陽のような人だった。店先に座り、色とりどりのゼリーやチョコレートが詰まったガラス瓶の向こうから、やってくる誰にでも気軽に声をかける。「今日は学校楽しかったか?」「風邪ひかんようにな」。フミに話しかけられると、子どもたちも、仕事帰りの大人たちも、不思議とみんな笑顔になって一日の出来事を話し出すのだった。
「駄菓子屋のおばちゃん」でありながら、彼女は街のすべての人の「お母さん」であり、小さな相談相手でもあった。テストの点数が悪くて落ち込む子には、そっとおまけのガムを握らせ、夕暮れ時に一人ぼっちで寂しそうにしている子がいれば、「ここに座っとき」と丸椅子を差し出す。
体を悪くして店を閉める最後のその日まで、フミは街の人を愛し、そして同じくらい、街の人々から深く、深く愛され続けていた。
お菓子がぎっしり並んだ店内。棚の配置は50年間フミの頭の中に
店先のガラス瓶。子どもたちはこの前で世界一真剣に悩んだ
赤いひさしが目印だった店構え(当時の面影)
開店前、仕入れから戻ったフミ。この後ろ姿に毎朝会えた
街のこえ、掲示板
さかもと商店に通った「元・子どもたち」から届いたメモ
0点のテストを見せたら、怒られると思ったのにガムを2個くれた。「よう正直に見せたな」って。あの2個目の意味、今ならわかる。
― 46歳・元わんぱく10円足りなくて棚に戻したラムネ、帰り際にカバンに入ってた。次の日ちゃんと10円払いに行ったら「利子はいらんで」って笑ってた。
― 51歳・現在は税理士親の転勤で引っ越す日、店の前を通ったら「新しい街でも、ここの常連やからな」って言われた。30年経ったけど、まだ常連のつもりです。
― 44歳・元・泣き虫仕事帰りに缶コーヒー買うだけの俺にも「お疲れさん、顔が疲れとるで」って。あの一言に何回救われたか。
― 58歳・元・仕事帰りの兄ちゃん初めてのお使いで来た5歳の娘に、フミさんは「一人で来れたんか、えらいなあ!」って店中に響く声で。娘は今もあの日の話をします。
― 39歳・二児の母ビー玉の遊び方を教えてくれたのはおばちゃんでした。「昔はな、道が全部遊び場やってん」って。あの話、もっと聞いておけばよかった。
― 35歳・元・ゲーム少年店じまいの日、シャッターの前に花束が山になってた。あんな駄菓子屋、日本中探してもここだけやと思う。
― 62歳・町内会「あんた、いつか自分の店やり」って言われて、ほんまにパン屋を始めました。開店の日、一番に来てくれたのはフミさんでした。
― 48歳・パン屋店主魔法の言葉
「いつでもおいでや」
そんな“街の顔”だったフミが、何よりも、誰よりも目に入れても痛くないほど愛したのが、2人のお孫さんだった。
店を畳み、静かな隠居生活に入ってからも、孫たちが遊びにくる日はフミにとって特別な祝祭日だった。ガラリと玄関の扉が開く音がすると、フミは少し不自由になった足を引っぱるようにして急いで迎えに出る。そして、両手を広げて、弾むような声で決まってこう言うのだった。
「よう来たなぁ!いつでもおいでや。ここはあんたたちの家やからな」
その「いつでもおいでや」という言葉は、孫たちにとって、どんな時でも自分を100%受け入れてくれる魔法のお守りのようだった。学校で嫌なことがあった日も、部活で上手くいかなかった日も、フミのあの温かい独特のトーンで「いつでもおいでや」と言われるだけで、張り詰めていた心がすっと軽くなった。
フミの部屋の引き出しには、いつも孫たちが大好きな、あのお店の頃と変わらない小箱のお菓子が、切らさずにそっと忍ばせてあった。
「ばあちゃんの手は、あったかい」と孫たちが言った手
引き出しの「秘密のお菓子」。最後まで切らしたことがない
80歳のサイクリストと、
緑のグラウンド
フミには、晩年の大きな楽しみがもう一つあった。孫たちが夢中になって追いかけている、サッカーの試合を見に行くことだ。
周りは「危ないから大人しくテレビでも見ていて」と引き止めたが、フミの孫への愛はそんな言葉では止まらなかった。80歳を過ぎてからも、フミは愛用の色あせた緑色の自転車にまたがり、白い帽子を深くかぶって、何キロも先にある土のグラウンドまで力強くペダルを漕いでやってきたのだ。
額に汗を浮かべ、自転車を押しながらグラウンドの脇に現れるフミの姿を見つけるたび、孫たちは少し気恥ずかしかったが、同時に猛烈に嬉しかった。
「フミばあちゃん、また自転車できてる!」
チームの仲間たちからもそう呼ばれ、フミはグラウンドの最前列で、誰よりも大きな声で応援した。孫がゴールを決めれば、まるで自分が決めたかのように飛び上がって喜び、試合に負けてうなだれる背中には、やっぱりあの優しい声で「よう頑張った、いつでもおいでや」と声をかけた。
あの緑のグラウンドを吹き抜ける風と、自転車のベルの音、そしてフミのまぶしい笑顔。それらは孫たちの青春の、もっとも美しい背景として深く刻まれていた。
愛車の緑の自転車。カゴには応援用の麦茶と、こっそりお菓子
白い帽子を深くかぶって、いざグラウンドへ。80歳の通い路
最前列の特等席から見た、孫たちの試合
フミの帳面
84年の歩みを、駄菓子屋の帳面ふうに
大阪の下町に生まれる昭和16年。五人きょうだいの三番目。よう笑う子やった
あの頃:ビー玉が路地の宝物洋裁学校を出て、縫製の仕事に手先の器用さと世話焼きは、この頃から筋金入り
あの頃:ラムネ 10円坂本俊夫と結婚「よう笑う子やなあ」が俊夫の第一印象だったという
あの頃:ガム 10円自宅の一角で「さかもと商店」を開店30歳。ガラス瓶を並べた日のことを、生涯うれしそうに話した
開店セール:あめ玉 5円店が子どもたちの「放課後の本部」になる丸椅子が2脚から5脚に増えた
人気:ぺろぺろキャンディ 30円夫・俊夫を見送る「店を開けとったら、寂しいひまがないやろ」と店を続けた
この年も店は休まず初孫・翔太が生まれる店のガラス瓶に「翔太用」の瓶がこっそり増えた
グミ 30円が仲間入り孫・陽菜が生まれる「陽菜用」の瓶も増えた。中身はいちご味ばっかり
いちごミルク 40円孫のサッカー応援に、自転車で通い始める75歳。緑の自転車と白い帽子が応援のユニフォーム
カゴに麦茶と塩あめ体調を崩し、47年間続けた店を閉める最終日、シャッターの前は花束の山になった
最後のお客さんにおまけ全部80歳。それでも自転車でグラウンドへ「危ない」と止める家族に「ほな歩いて行くわ」と交渉した
応援のど飴 常備永眠 享年84令和7年、春。最期まで「みんな、ようけ来てくれたなあ」と笑って
―家族と街の人の記憶で「いつでも、おいでや。」公開お代はもちろん、いりません
プライスレス※「あの頃のおやつ」は、常連さんたちの記憶をもとにした当時のお店の風景です
ガラス瓶のアルバム
写真をクリックすると、大きく見られます

この笑顔が「さかもと商店」の看板だった

一番人気の瓶。フタの開け方に「コツ」があった

「よっつで10円。ケンカせんと分けや」

遠足の前日に一番売れた、ぺろぺろキャンディ

「虹みたいやろ」と自慢の並べ方

翔太用の瓶の中身。だいたいコーラ味

陽菜用の瓶はいちご味ばっかり

冬限定のチョコ。夏は「溶けるから休業」

売り物のようで売り物じゃない、店の宝物

「昔はな、道が全部遊び場やってん」

夏の主役。ビー玉の取り出し方は企業秘密

氷水で冷やすのがフミ流。「冷蔵庫より旨い」

大人の常連さん用の棚から

棚のいちばん目立つ場所。新入りのお菓子はまずここから

店の外の相棒。回すハンドルは固いのがご愛嬌

「一日ひとつぶ」がフミの晩年のおやつ

奥の棚には文房具も。忘れ物した子の駆け込み寺

夕方のあかり。この光が消えるまでが「こどもの時間」

閉店後もしばらく灯りがついていた。帳面をつける時間

近所の風景。フミの買い物コースだった

「気ぃつけて帰りや」の声が響いた夕方の通り

夏祭りの夜。店は祭りのベースキャンプになった

店までの近道の角。ここを曲がるとお菓子の匂い

常連さんの自転車でいつも満車だった店先

出番を待つ愛車。雨の日は玄関の中に避難させた

路地の日常。フミの自転車もこの中のどこかに

カゴ付きが絶対条件。「カゴは夢を運ぶんや」

先代の自転車。緑の子はこの後にやってきた

孫が小さい頃は、後ろに乗せて公園まで

試合の日。フミの声援は審判より通った

試合前のグラウンド。フミはいつも一番乗り

「ボールは友だちなんやろ?」

翔太の初ゴールはこのゴールだった

フミが愛した「緑のグラウンド」

「手ぇ出しや」——お菓子でも、お守りでも、この手から

フミを語るとき、家族がまず思い浮かべる花

「ひまわりは、ずっとお日さんの方を向いとる。うちと一緒や」

夏休み限定でやっていたかき氷。いちご一択

店じまいの時間を教えてくれた夏の空

フミの口ぐせ「ええ天気や。それだけで儲けもんや」
あの日の自転車の鍵が、
今も鳴らすエール
フミが静かに息を引き取った後、遺品を整理していたお孫さんの手のひらに、一本の古びた自転車の鍵が残された。それは、あの夏の暑い日も、冬の凍える朝も、孫たちの姿をひと目見るためにフミが握りしめ、グラウンドへと走らせた自転車の鍵だった。
日記や手紙といった文字は、おばあちゃんは何も遺さなかった。けれど、私たちは『メモリアム』を通じて、街の人々の記憶の中に残る「おばちゃんとの会話」や、孫たちの胸にある「グラウンドの景色」を集め、彼女の言葉を1冊の本、そして親戚中でいつでも見られるこのデジタルサイトへと編み上げた。
完成した物語を開いたとき、そこには、ただ明るいだけではない、不器用なほどに真っ直ぐなフミの「愛の軌跡」が、美しい文章として再現されていた。
「いつでも、おいでや」
フミばあちゃん。この言葉は、これからは私たちが引き継ぎます。
だからそっちでも、瓶にお菓子を詰めて待っていてください。
いつでも、会いにいくから。
このアーカイブについて(制作の経緯)
フミさんは日記や手紙などの「文字」を遺しませんでした。本アーカイブは、ご家族の記憶に加えて、さかもと商店に通った街の方々から寄せられた思い出をもとに、編集者が構成し、ご遺族の監修・校閲を経て、その人生をひとつの物語として編んだものです。
公開範囲とプライバシーへの配慮
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写真と思い出のデータについて
お預かりした写真はすべて高解像度でデジタル化し、本サイトとは別に記録メディアでご遺族へお引き渡し済みです。「街のこえ」と「お手紙」は、法事などの節目に随時追加していただけます。
フミばあちゃんへのお手紙
ばあちゃん。俺が試合でゴールを決めた時、審判より大きい声で「よっしゃー!」って叫んだの、チーム全員いまだに覚えてるからな。恥ずかしかったけど、あれが俺の自慢やった。社会人リーグでまだサッカー続けてるよ。グラウンドの脇に緑の自転車が停まってる気がして、今も試合前はそっちを見ちゃう。見にきてや。いつでもおいでや、やろ?
翔翔太(孫・22歳)
ばあちゃんの「いつでもおいでや」に、私は何回助けられたかわかりません。高校で部活を辞めたいって泣いた日、ばあちゃんは何も聞かずにいちごのグミを瓶ごとくれたよね。「ぜんぶ食べてから考え」って。あの瓶、今は私の部屋にあります。中身はもう補充してくれる人がいないから、ヘアゴムを入れてます。ごめんね。でも毎日見てるよ。
陽陽菜(孫・19歳)
お母ちゃん。店の帳面、全部取ってあったんやな。整理してたら、売上の横に「今日、山田さんとこの子が初めて笑った」とか書いてあって、笑いながら泣いたわ。商売の帳面やのに、書いてあるのはほとんど人のことや。お母ちゃんらしい。この帳面がこのサイトの年表になったで。ほんまの帳面は、俺が仏壇の横で預かっとくから。
浩浩一(長男・59歳)
フミさん、翔太くんのチームでコーチをしていた者です。80歳を過ぎたおばあちゃんが毎試合自転車で来る——最初は正直ヒヤヒヤしていました。でも、フミさんの声援があると、不思議とチーム全体が走れるんです。負け試合の後、うちの選手全員に飴を配ってくれましたね。あれはどんな戦術より効きました。うちのベンチの一番いい席は、今も「フミさんの席」です。
田田村(少年サッカーチーム コーチ)
おばちゃん、店の前でよう怒られた元・悪ガキです。ガム盗ろうとした俺を捕まえて、怒るんじゃなくて「腹減っとんか」って晩飯食わせてくれたの、一生忘れません。俺、いま子ども食堂やってます。おばちゃんの真似です。全部、おばちゃんの真似です。天国でも誰かにおまけつけてるんでしょう。俺もこっちで、つけ続けます。
KK・Y(元・常連の悪ガキ・45歳)